昨日のこの本
3回くらい読み直したけど
そのたびに新たに納得できる箇所があって
また時間をかけてしまう
今日はフーコーの言わんとしていることに再び注目
フーコーが大胆なところは
我々が今当然だと思っている「個人」の在り方は、歴史の中で作られた結果であって、そもそも「個人が個人であるとはどういうことか」自体が歴史の中で変わってきたのだ、と考えるところ。
個人が個人として新たに成立するタイミングがあった
それが
キリスト教世界のはじまり
ここで
「やってはいけないこと」をくくる罪の概念が生まれて、人は常に在罪感を心に抱くようになった
それ以前の古代は
心の問題として自分をとらえていなかった
というのです。
心がそのように作られていった、というのはかなり特異な視点かと思います。
誰もが
自己規制しながら生きているのは
誰かが見ているから
何者かに監視されているから
そして誰かに見つかったら自分にバチが当たると思っているからです。
近代的な心の発生
そんなタイミングがあった。
そこから
正常と異常
よいアイデンテイテイーとそうでないアイデンティティー
秩序と逸脱
様々な概念が誕生し始めます
さらに
人間は過剰さを持っている
本能的な行動をはみ出して行動する柔軟性がある
だからこそ出てくるこれらの多様性がある
私たちは心を成立させてきたのですね
闇を抱えるようになったと感じるのは
思考することで思考から逃れるものが生じていると感じるからで
意識・無意識とか理性・非理性という言葉がそうさせているとも言えます
本当の自分、とかもそう。
近代的「心」が発生する以前の古代人の自己抑制を
〝自己への配慮〟
というのだそうですが
フーコーはこの〝自己への配慮〟をポジティブにとらえていて
これはあくまで自己本位で罪責性に至らないような自己管理をする、ということ
としています
本の著者、千葉さんのフーコー的解釈も面白いです
千葉さんはフーコーが推す生き方は
新たに世俗的に生きること
と言い換えてます
簡単に言うと
変に深く反省しすぎず、でも健康に気を遣うには遣って、そのうえで
「別に飲みに行きたきゃ飲みに行けばいいじゃん」みたいなのが一番フーコー的。
こういう世俗性こそがフーコーにおける「古代的」あり方なのです
と言ってます
突き詰めて考えた方の結論
現代に生きる私たちが
新たなる古代人をも目指す!
皆さんはどう考えますか?
私の今日の享楽の一ページ
行きは雪をかぶった恵那山見ながら
土岐川をまたぐ
3時間後
帰りはこれと一緒
は?(笑)
おしまい