昨日のユーチューブでのライブトークで
「なぜヨガを始めたのか」
との質問を受けました。
ヨガを始めたのは偶然のきっかけです。
結婚して行った初めての土地で、しかも人生で一番の田舎!!
人脈は全くなく、友人もなく住み始めた場所で私は何とかそこに順応しようとしていました。
数年後
数少ない友人が誘ってくれたのがヨガの教室でした。
さらに数年後
ヨガのことをもっと知りたい!と思ったのは
「自分が不幸だと思っていたから」
と、話しました。
ヨガの勉強はとっても面白く、
「ああ、こういう学びがあるんだ」と感動し、月に一度名古屋に通うのが楽しみでした。
内観を学んで自分の心根を客観視したり
心を穏やかにするために肉体を客観視する
すべて納得のいくものでした。
理論はわかる
自分の理知の判断がまずいからそれを修正すればいい
自分の執着を無くしていけばいい
それもわかる
わかるけど
わかると出来るは違うんです!
欲を無くすことは出来ないから
(貪欲な)「私」はいつまでたっても元気にそこにいて、それが死滅するってことを実践したり体感を持てないんですよね。
自分が幸せでないと感じていた私は
それまでも幸せを目指して色々な場を求めたり、人を頼ろうとしたりしてきました
幸せになりたいなりたあああああああい
そう思い続けていた
なぜか?
それは
自分は今、幸せでないから
それが前提にいつもあったということなんですよね
求めていたってことは
自分が幸せでないといつも認めていたということになる
それが分かったのはいつだったんだろう
その後
ヴェーダの先生のもとで勉強し始めて
また違った人間観、世界観、神様の存在を知り始めたことも大きかったです
https://biz.trans-suite.jp/15356
そこでは
「心を何とかしようとしない(操作できるものではないから)」
「私を含めすべてはブラフマンに拠っている(この世は幻に過ぎずブラフマンしか真に存在しない)」
「私(アートマン)は大いなる存在(ブラフマン)と一体化しているという状態が安心である」
こんなことを聖典を紐解きながら学びました
つまり
心は変わるものである⇒安心はない
変わらないのは
普遍に在るアートマン(神様)のみである⇒安心がある
だから
そこを思いなさいって
これはインドの神様シヴァ神
神の象徴です
象徴としての神様は他にも色々います
聖典も神を現す音なんだそうです
まあそんなことを教えてもらいながら
少しずつ心のおさまりどころが出来たのだと思います
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今朝、ユーチューブを見てくれた友人からメールがありました。
彼女はヨーガ療法を3年間一緒に学んだ友人ですが
「幸せになってないって!共感です」
とありました。
私は返信で
もう幸せになろうとは思わなくて、今日から新しい歳なので不幸を笑い飛ばせる人間になろうと思います(笑)
と送りました
もはや自分が幸せだと思う必要もないわけです
たとえ幸せだとしたら、それを逃すまいと執着も起こるでしょう
心の働きとか性質って自分でなんともならないのだから
神様がそれを与えてくれたものなので自分で創造していないし
あるいは環境によって作られたものだからなおのこと抗えない。
だったら
不幸と感じやすい心の働きを抱えたまま安心する
と
いうことだっていいのだと思います
そこまで昨日は言えませんでしたがっ
自分でどうこうせず神様に委ねられたら
そこに安心はあります
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そう
今日から新しい年齢になりました
予想通り
いつもの一日
いつも通り歩く道
雪をうっすら讃えた恵那山が見えました。
夕食もいつものように、ワインは今日のみ!
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