電車の音からヴェーダ聖典へ

今朝、布団の中で目を覚ますと

風の音がするのが聞こえてきました

風が木を揺らし、葉を震わせる音

風が窓に当たり振動させる音

不規則なその音をしばらく聞いていて

思ったのです

「ああ、私は今、(音の)変化を感じることが出来ているんだ」

と。

では

音は存在するものなのか?

私達の持つ耳の機能によってそれは音として成り立つのです

音の感知力は動物と人間では違うし、人によっても違います

私達一人一人がその機能によって、音を成立させ、聞いている

耳が音を生み出しているのです、この世界から。

視覚、嗅覚しかり、味覚、触覚も

この感覚器官をもって世界を作り上げている

感覚器官の限定の中で世界をみているのです

だから

感覚器官がなければ世界はありえない

風の音を聞いて改めて

世界は変化している、し続けているのだと強く確信したのでした

人間の身体も細分化していけば分子や量子でできていて

常に運動し続けている流動的なものです

変化し続けていて、捉えるものによって変わるこの世界は

実体がない、ともいえます

感じているのは、量子が止まっているかのように見える一瞬の今なのです

インドの聖典、ヴェーダでは、感覚器官に左右されるこの世界は

幻である

と、とらえます

実体がないのは世界と同様人の❛心❜、❛体❜もそう

実体のあるものはただ一つ

アートマ―(創造神)

であって

この

非実在(アサット)と実在(サット)を分別することが

識別知(ヴィヴェーカ)

として実在と結びつくことが信仰である、とされるのです

そして

それこそがヨガ(結びつけるの意)なのです

今朝

布団の中で風の音を聞いて

実体のないってこういうことか

なんだかとても単純に納得できたのです

この時

耳で音を捉えながら

変化する音を感じる私がいることも感じました

この場合の私は変化する私を客観視するような私です

これは私のうちのもう一人の私みたいな冷静な私です

冷静な私で観察することをメタ認知といいます

 

さらに言うと

ヴェーダでは

実体のない、幻に過ぎない心を修正する必要はない!

としているのです

潔いいッと思っちゃいます

道具に過ぎない心を何とかしようとするより

実体のあるものに心を向けよう、

マントラを唱えたり、行為を神様に捧げて

神様を信仰しよう!というのです

このような考えは

ヴェーダ聖典から数千年後に誕生した仏陀の精神性につながったものと思われます

それは

またの機会に