ぎっくり腰の痛み
発症から3日後の午後にはだいぶ回復し、
週明けには痛みが無くなりました
本当にお騒がせいたしました
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今日は木曜日
可児のレッスンの後、鳩吹山に登ってきました
登山口まで続く道
この道が私の視覚に映り込んでくる
そのことで
私は私が存在することを意識できる
道を歩く振動感覚があるから
その感覚を手立てに
私は私の存在を確認できる
私は私を感覚情報によって作りあげている
私は
実は
どこにも存在しないのです(名詞としてはない)
私は
私の存在を識り(しり)続けている
その働きがあるにすぎないのです(動詞としてある)
『私』は意識の働きに支えられて、起こるものなのです
御嶽山が見える
そのことで
私は私を識するのです
目に入るものを通じて自分を作っている
寝ている時は私は私の感覚を感知できない
認識する対象がなければ
主体である識もなくなる
だから
私はなくなり
そして
朝、目覚めたとき受ける感覚が再び私を作りはじめる
世界から受ける感覚によって私はその都度成り立っている
その都度成り立つものだから
実体はないのです
じゃあ
鏡の私は私じゃないのですか?という質問がありました
これは、厳密にいうと
⓵鏡に映った姿が視野に入った
②その顔が私だという意識(言葉)がはたらく
③それは私であると意識する
という順序をとっていますね
鏡に映った顔は
決して自分の目で直接見ることは出来ない、他人から見た私の映像です
これが目に入った時、
「他の誰でもないと断言できる、他者から見えるであろう私」
という言葉と共に私が意識に上がるのです
こういう時もあったかな?
鏡に映った自分を見て
そこで初めて私は私を識するのです
「ああ、これが鏡に映った私だ」
という言葉がそこには介在します。
言葉のない幼いころは
その言葉がないから
私が起こらないのです
動物もほとんどがそうでしょう。
鏡に映る映像
それが見えるとともに
それが間違いなく私である!と結び付ける働きがあって初めて私の顔になるのです
その意識こそが私を私として成立させているのです
鏡を見て
鏡に映っているのは私だ(この時自分の方から鏡の私を見る方向です)
というより
見る事によって私を成立させているのです(鏡に映った私の方からこちらの私に向かう方向)
ちなみに鏡に映る私は、変化し続ける途上の一瞬のものです
他人が居なければ私は存在しないのですか?という質問もありました
身体感覚があれば私はある、と意識出来ます
なので
存在はする
ただ私たちは
人と接するときに
その人は自分ではない人、他者だという区別を言葉でしています
そのことで私を存在させているのです
他者という認識対象があるということは私の存在を強烈にします
そのことで自我も強まります
他者というのは必ずしも人間ではないです
この
他者によって(他者でない)自分を識できるのですよね
そんなことを思いながら山頂へ
私は存在しないんだ
とおもいつつ
車でお弁当
味覚も私を想起するのです~