時間があっという間に過ぎていく
坂を転げるように歳をとっていく
よく使う言葉です
これって今始まったことではなく
1000年以上前から
移りゆく時見るごとに心いたく昔の人し思ほゆるかも
と万葉集で大伴家持は詠んでいる(700年代)
移り変わって戻らない時間の意識を持っているんだ、このころから。
国々の防人つどひ舟乗りて別るを見ればいともすべなし
万葉集は「今この時」「孤の時の感覚」「時の感動」を読んでいて
続く古今和歌集は
「時間」を対象にし始めているというのだ!
未来にもまなざしが向いているって
春霞たてるやいづこみよしのの吉野の山に雪はふりつつ
花のいろは移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせしまに
このような古代日本の時間意識の例から
原始共同体の時間意識とか
ヘブライズム、近代社会、ヘレニズムの時間意識の違いとか
色んな例をあげて
時間の意識の差異、変遷を挙げているのです
この本!
真木悠介は
本名は
見田宗介
今月亡くなったそうです
https://news.yahoo.co.jp/articles/a65570969e5f5991df1515f9de73c76d422f7469
弟子で同じ社会学者の大澤真幸さんが
追悼文を朝日新聞にあげていて
それを読んで
代表作を読んでみたくなったのです
それがこの本。
「時間の比較社会学」
私は大澤さんの本は対談を読んだことがあるのですが
その大澤さんが18歳の時この先生に出会って、その話を聞いて開眼したのだそうです
その文章には無駄がない、という評価通り
的確な言葉を丁寧に選んでいる感じがする文章です
だから
読み飛ばすことが出来ないし
3回くらい繰り返し読まないと進めない文が1ページに複数あるッ
時間がかかりました
でも
手元に置いておきたくなる本です。
以下内容です・・・
人生が短いと感じるのは
「時が永遠に続くものだ」という思いがあるから
それから
人生ってはかないなあって思うのは
今をなおざりにしている証拠。
これから起こる(であろう)結果に意味がある、今は未来の原因なんだと
つまり
今、存在する意味は常にそのあとの時間のためにある、との思いは
未来を想定した地点から今を考えることになる。
未来に万全に備えるための今
その未来の
行きつく先は
死
であるから
存在の意味、生きる事がむなしいと思えるのは当然でしょうと。
未来のための今ならば、過去は無意味で、すぐ過去になる今も無意味なものとなってしまう!
そりゃむなしい(´;ω;`)
コンサマトリー(現時充足的)な感覚を喪わないこと
過去は無意味なものでなく
❝存在のうちに累積していく❞と考えるならば
取り返しがつかない過去であっても、それは現在に生きていると思える
そして時に対して
それを時を超えた視座でジャッジするのでなく時のうちに充足する感覚を疎外しないようにすること
そこが
虚無から離れること。
私たちが時の恐ろしい呪縛から解放されている時(コンサマトリー)は
他者や自然の中で自我が溶解している時である
現在は未来の理想実現のためにある。今にそんな価値しか見いだせないほどに空虚になるのは
周囲の人間や自然と融和する感覚を失っている時だといっています。
以下、引用した方が伝わるので引用。
ここ、私が最もうなったところです!
存在のうちに喪われたものを、ひとは時間のうちに求める
存在のうちに喪われたものを、ひとは時間のうちに求める (2回繰り返し)
けれども時間は我々をただ別の存在へと導くだけだから存在のうちに我々が見出すものを拒んでいるものを、時間が与えてくれることはない。
時間がニヒリズムの元凶であるのではない。
ニヒリズムが元凶としての時間を存立せしめる
たった今存在する感覚を持つことが出来ないそれを、ひとは未来という時間の先に求める
今感じられない充足感を未来に得られるはずだと希求し続ける
でもそれはかなうことはない
行きつく先にも何もない、求めるものはそのさらに先に在り続けるのだから。
その姿勢なら時間の呪縛から逃れることはできないのだ(わたし的解釈です)
以下引用
死の恐怖や生の虚無とは知の地平の範疇ではなく、ひとつの生きられる戦慄である以上、我々をそこから解放する認識は、我々の知によって知られるばかりではなく、我々の生によって知られねばならないはずだ。
知がそれ自体として開放する力を持つということはない。知が生き方を変える限度においてだけ、それは開放する力を持つのだ。
生の虚無から脱するのは
知識だけでなく、生の感覚に拠るんだ!
今、感じる生の感覚
自我の融解、これは何だか難解だけど
静かに座って
今ここで向き合える感覚なのだと思うのです。
さ
いま
一緒に呼吸を~~~