今日のこと

・・・・午前中・・・・・

一年に一度の検診に行きました。

30分くらいで終了するかな、なんてタカをくくっていたら

2時間もかかってしまった。。。

採決の前に血圧と脈を測ったら

“高度な徐脈”

と診断されたのです。

去年もそうだったんだけど

さらなる徐脈になっていたッ

改めて循環器科にかかるのも面倒な気がして

進められる検査をしてみることにした。

短時間の簡単な心電図とって、心臓のレントゲン撮って

おまけに

24時間心電図もとることに!

なので今、私の胸部には計測装置がついてます。

「いつものように生活して、いつものように運動してください」

といわれました。

けど

明日も雨天でいつものようには動けそうもないので

今日は家でタバタ式トレーニングで有酸素運動しました。

久しぶりにしたら中々快適だったので

夜のレッスンでも行って

皆さんに付き合っていただきました。

明日もお願いします(^^)/~~~

虚脈の原因は検査しても9割はわからないそうです(´;ω;`)

 

・・・・午後・・・・・

レッスンの時にHさんが

「骨盤底筋群を使う動きをしたら便秘が解消しました」

と教えてくださったので

それをもとに皆さんと一緒に行ってみました。

皆さんもそんな例があったら教えてください!

全員でシェアしていきましょう

 

・・・・夕方・・・・・・

今日はこの本の続き読んでまたまたうなり声上げちゃいました。

観光がもたらす人類への恩恵がある

観光を哲学するってこういうことなのか!

 

今回読んだページは

ドフトエフスキーの著作からその思想を分析して

観光客に結び付ける

と、いう内容。

ドフトエフスキーの作品、少しでも読んでおいてよかった。

その日本語についていけたから。

東さんの知恵が稀有なものだと感じられたから。

こんな言葉があった!

子として死ぬだけでなく親としても生きろ。

多くの文章を積み上げて

最後に

この言葉に帰着するんだ~

と、感心。

 

・・・夜・・・・

夜、遠方のヨガの仲間とズームでダウンドックのポーズの研究会しました。

ポイントは

「足の裏」

まだまだ研究は続きます~

 

・・・今日、何度も玄関を通過してます・・・・

ここ数日の温かさですっかり開花!

香りがイイんです

 

訂正は前向きにしていこう!

この本を読み終えました。

東さん、YouTubeでの話も面白いけど

著作もとても面白い!

東さんは哲学の専門家だけど

それにとどまらない知の宝庫みたいな人に思えます。

ウィトゲンシュタインとか哲学者や外国の思想家の引用だけでなくて、歴史上の人物、福沢諭吉とかルソーとか、作家とかがどんどん飛び出してきます。

明治維新から今の日本の政治問題にも介入します。

うま~くうま~くそしてわかりやすく引用して本題に結びつけています。

本題とは

「(過去を)“訂正する力”を持つことが大事だよね、私たち一人一人も、政治家も、社会全体も。

それが

私たちの未来を変えていくよね」

と、いうこと。

まずは「訂正する力の」哲学的な本質って何かを教えてくれます。

訂正なんてしょっちゅうしている事なんだけど

それってどういう力なのかを改めて考えさせられます。

まずは

訂正って人間社会の本質で

だからこそ訂正は終わらないってこと。

たとえば

誰かと対話するときに、相手に伝わるように言葉を言い換えるのも訂正の力。

対話は訂正の連続なのだから決して終わることがないって。

自分の思考をその時の状況に対応させて変化させるのも訂正の力。

だから

生きていく限り続くものですよね、確かに。

そして

訂正は過去をきちんととらえることで出来る。

辛い出来事を違うストーリーに変化させる力を私たちは持っている。

今までこう思っていたけど

それって

「実は・・・・・だった」

こういう訂正が出来る自由さ。

それが人間の本質。

稲垣さんてこういう人だと思っていたのに

実は・・・・なんだね

って言われたい。

そして

それを再び、何度も更新していきたい。

そして

自分の周囲にもそういう人たちを発見していきたい。

その方がワクワクします!

東さんは

人間は結局のところ誰のことも理解できず、誰にも理解されずに孤独に死ぬしかない。できるのは「理解の訂正」だけ。

「実はこういう人だったのか」という気づきを連続させるだけ。

と、いいます。

そういう前提は

なんだかホッとするものです。

訂正する力って自分を更新する力でもあるんだ!と思えて。

 

最後のほうでは

なんと

鎌倉仏教を代表する親鸞と日蓮を対比させているんです!

端折りますが

自然(すべて成り行きに任せる)

作為(頑張って国をなんとかするぞ)

の対比。

両極のどちらかに立つのではなく

どちらにつかないのでもなく

作為があるのに自然のままだと思わせる力こそが必要なんだと。

 

あれ?

いつの間にかそうなっている

ってのを生み出す力と考えます。

たとえば

遊びが仕事になる力

仕事が暮らしになる力

過去を変えたのに変えたと思わせない力

訂正する力は

そこにも宿っているというのです~

こんなふうにできたら最高です。

 

ご安心を!!

私たちにある力です!!

 

神話にホッとする

数日前にある方と

実家の両親の話をしました。

ちょっと不安はあるけど、まあ今のところは大丈夫かなぁ。

なんとか二人でやっているけどこの先はどうなることやら、、、

なんてことから話し始めていろいろ。

そしたらその方が少し間をおいて

「北欧の神話にね、こんな話があるんですよ」

そのあらすじを教えてくれました。

それを聞いて私は

なんだかふんわりと救われたような気持になりました。

包み込む光」の写真素材 | 3,546件の無料イラスト画像 | Adobe Stock

限りなくやさしく

そういう決断もあっていいんじゃない~と、容認された感じがしたのです。

そして

その内容もさることながら

そこで神話が出てきたことに

私は小さな驚きと、うれしさとそしてその方への興味を一層持つことが出来ました。

 

神話。

私も日本の古代のそれに関心を持ち始めているところでもありました。

最近この本を読みました

シャーマニズムって

シャーマンという特別な能力を持った人間が、神や精霊と交流することをいいます。

それは

未開の部族社会だけでなく

仏教やキリスト教、イスラム教の中にも見出すことが出来るし

日本の神話の中にもそんな要素がある。

アマテラスにも出雲の大国主、神武天皇など古代の天皇たち、

そしてこの本では聖徳太子や安倍晴明も取り上げられています。

そして

シャーマンとは、ものごとの起源を知っている者

「神話」は共同体の人びとに向けて普通に語られる物語、伝説ではなく

起源を知るシャーマンの神秘的な力の秘密の「知識」なのだ、といっています。

神話って

ただの物語でなく

かつて❛❜秘密の知識❛❜としての言葉だった

だからいまでこそ

神話を知ること、神話を読むことは

我々の無意識の深層をコントロールする魔力を得ることに繋がる

と。

 

ともあれ

神話の引用は

私にとってはとても心地よいものだったのです。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて

今日は久しぶりに米田白山へ

山頂手前で白山神社方面に下って

下りきったとこにある鳥居

も一度登ってここから山頂へ

来た道を戻ってもう一往復

蛇行する木曽川と川辺方面が見えました。

行ったり来たりでこの鳥居を3回くぐりました!

軌跡はこんなふうになりました( ´艸`)

司馬遼太郎の本を読んで

この本

司馬遼太郎が歴史上の人物を主題にして書いたエッセイです

司馬遼太郎歴史のなかの邂逅〈1〉空海~斎藤道三 (中公文庫)

一つ一つは短めなので気軽には読めます

ただ

歴史に深く精通していて

文学の才能にも長けている筆者が書く文章には

ページ数以上の深みがあります

一行一行に唸る感じで読めるお得感(笑)

 

引用しちゃいますよ~

銭の効用を最も明快に把握した政治家として、日本史上、最初に平清盛がおり、次いで足利尊氏がいるということはゴシック活字で述べておきたいところである

これに比べると源頼朝などは別の条件の上に立った政治家で、土地支配の感覚はあっても貿易支配の感覚はなかった。

彼が教授であるとすれば、法学部教授であっても経済学部教授ではなく、この点彼が倒した平家政権の清盛は商人そのもののにおいがする

って

歴史上の人物の所業を大局的にしっかりわかっていて、その感覚を表したり

ゴシック体で述べたい、とか教授の比喩とかわかりやすい~

 

この地、美濃とゆかりある斎藤道三のことは

〝魔術師〟と呼んでる。

美濃にはぼろぼろの雑巾になれ果てたような足利秩序がなお生きている。

調律師のようにとぎすました耳と刃物のように切れる指先で美濃の人間軍の中に入りこみ、人間どもに様々な音を出させつつ音調を少しずつ変えてゆき、ついにまったく新しい音を出す楽器に変造してしまった。

その間、人を悦楽させ戦慄させ、犯し殺戮し、魅了させた。

それを後世のわれわれからみると、まるで魔術師のようにみえる。

調律師のたとえに道三が美しくはまってるう(⋈◍>◡<◍)。✧♡

 

義経のことは好きみたい。

義経は軍事的天才というたった一つの才能を持ったために有名になり、それがために劇的すぎるほどの生涯を送った。

才能というものは、その人を必ずしも幸福にするものではない。

しかし社会にとっては、幸福の要素になりうる。

仮に、義経のいない日本史を創造すると、色あせて見えるではないか。

前回の大河ドラマで義経役の菅田将暉の顔が浮かんでしょうがない私です(笑)

 

そして

この本の中で筆者が最大に賛辞していたのが

空海

まずはこの言葉

日本史上最大の秀才をあげよといえば、やはり空海であろう。

として

数々の彼の人間離れした頭脳明晰さを挙げてる

中国語の文才は唐朝第一流の文章家に匹敵するほどのもの

サンスクリット語の日本最初の習得者

などなど

そして

思想家として完璧だったと。

思想家としての空海は、天才とか何かというより、空海その人がすでに宇宙そのものであったということを思わざるをえない。

空海の生涯は、その卓越した論理的完璧さと同様、結晶体のようにむだがなく、端正でありすぎることに驚かさせる。

空海は62歳で入定(即身成仏)しますね

空海が自分自身を真言密教という宇宙体系の中に溶け込ませ、宇宙そのものにしてしまった人間として、

私自身の驚きを文学化する以外になかった。

司馬遼太郎には「空海の風景」という空海の生涯をおった著作があります。

彼が最大に評価する空海

そのさわりに触れた空海のページを何度か繰り返し読みました。

同じ人間なんだよな~($・・)/~~~

最後に空海が建立した東寺のことを書いた部分です

われわれは、京都の教王護国寺の仏たちを、ことさらにただの彫刻としてみてさえ、その造形の異様さに、人間というものはこれほどまで及ぶことができるものかと呆然とする思いがする。

しかもそれが単に放恣な造形的空想力でつくられたものでなく、その内面に緻密な思想があり、さらにその仏たちの思想群が、一つの原理へ帰納され、帰納されたものが同時に原理に発揚して、帰納と発揚が旋回しつついわゆるマンダラの世界を大構成しているということ

帰納と発揚が旋回って!?!?!?

そういう表現が出てくるものなんだなア

特別展「国宝 東寺ー空海と仏像曼荼羅」 | OBIKAKE(おびかけ)

頭の中が旋回しちゃう(笑)

ただ見るだけでも

そして

何度見ても

圧巻な東寺の仏像彫刻

東寺の歴史 | 新美術情報2017

 

来月その前に再び立てるかも!!

 

 

 

 

 

 

現代思想入門を読んで

  • 年末年始にとりこになっていた本を紹介します

長文ですがどうぞー

現代思想というものを理解するのにとても役に立つ!

はい

大いに役立つ、気がします(笑)

そもそも

現代思想って何?

って感じですが

20世紀を代表する3人哲学者、デリダ、ドゥルーズ、フーコーの紹介がまずなされます

この紹介の仕方がとても端的でわかりやすいのです!

 

この3人の主張を中心に進んでいくのですが

彼らの主張に、私たちの人生における問題意識を解いていくための共通の手がかりを探していこうとするのです

その共通点のすり合わせ方がなんとも面白い!

すり合わせはデリダの考え方

2項対立(必然と偶然・主体と客体・男と女、安心と不安・・・・)からの

【脱構築】がベースです。

でも

難しくないんですよ!

脱構築って2項対立のどっちにも振れすぎないで思考する、生きていくってことだけど

例えば

自己他者は2項対立だけど

自己都合と他者都合の間で私たちは常に物事を選択したり決断します。

そんなとき

自己中心になりすぎず他者へ配慮しながらも

それでもなお

どちらかに偏った決断や選択をせざるを得ないよね、それを自覚しようね、

という解釈が脱構築。

また

〝一切泡立ちのない、透明で安定したものとして世界をとらえるのではなく、炭酸で泡立ち、ノイジーでざわめく世界として世界をとらえるのがデリダのビジョン〟

2023年】炭酸水メーカーのおすすめ14選 コスパに優れているって ...

なんて

視覚的にも分かりやすく教えてくれます!

 

そして

ドゥルーズの主張

世界では

〝一見バラバラに存在しているものでも実は背後では見えない糸によって絡み合っている〟

関係性(つながり)と同時に無関係性(断絶)の繰り返しでもある〟

そして

〝世界は運動のただ中にある、あらゆる事物は異なる状態になる(生成変化の)途中である〟

という主張。

庭の夏ミカンも運動中ってこと

だから

「ホントの自分」を探求するより生成変化する自分を見ていこうよ!

そのために行動してみようよ!

と言ったり

接続ばかりじゃなく、断絶だってありなんだよ

と、言ったりしていて

私は実はそこになんだか包容力を感じました。

著者はこれを仕事術にも応用しているのです!

 

また

フーコーという人は

社会の脱構築

を主張した、という分類になります。

フーコーはさらに古代の人々の思考にも回帰していて、それを見習うべきものとして取り上げています、そこにも著者は注目しています!

 

そして現代思想への布石としてさらに3人の哲学者が紹介されます

それが

ニーチェ、フロイト、マルクス

彼らの2項対立の部分に焦点を当てているのです。

ここが一貫しています。

ニーチェは

理性(秩序)に対して非理性(混沌)の拮抗とそのせめぎ合い言った最初の人

フロイトは

意識無意識を探った人

マルクスは

労働資本の二項対立に搾取というメカニズムを見出した人

ここにショーペンハウアーやカントまで登場してきます

それらのエッセンスを紹介しながら融合していくのです!!

 

この本は

まるで

ミツバチが花の蜜を吸うように

それぞれの花の美しさを深堀するのでなく

美味しいところをかっさらってブレンドして

そうしてその独自に集めた蜜をエネルギーにして現実世界で快適に羽ばたこうとする

フリー写真] コスモスの蜜を吸うミツバチ - パブリックドメインQ ...

 

そんなイメージで読み進められるのです

そして3人の哲学者の主張を

私たちの今へのメッセージとして帰着させるのです

自分の生い立ちを深追いしすぎず、境遇を偶然の産物とみてそこにとどまることなく、たまたまここにある自分に出来ること(タスク)を見つけ続けていく

なんと前向きで簡潔な帰着でしょう(笑)

 

さらに

ラカンなど複数の哲学者が登場しますが

すべてエッセンスを組み込んでいきます

フリー写真] コスモスの蜜を吸うミツバチ - パブリックドメインQ ...

 

私が2項対立で葛藤しやすいのが

意味無意味

そして

有限無限

なんです、他にもあるけど。。。

深く考えることに意味がある

絶対的な存在があると信じていることは大切なこと

なんてことを思うことがありますが

思考を深めるということはその無限の泥沼にはまっていくことでもある

そんな私へのヒントになるような言葉もちりばめられていました!

*世界の意味を問わない、そこには偶然があるだけ

*意味は常に逸脱、多様化するから世界は常に全く別のものに変化する可能性がある

*人間の有限な感知能力を超えたものが世界にはある、そんな無限の謎に向かっていくのではなく有限なる行為をこなしていくこと

 

「淡々として有限を生きる」

この有限

これはまさしく身体が教えてくれることです。

無限は脳内で考えるイメージの産物でしかない

その脳内の無限ループを払拭させてくれるのは有限なる身体性なんだ

このことに

今朝2時間ほどウォーキングしていた時に気づきました。

呼吸も身体も有限

庭の山茶花と同じ

そして

身体がここに存在するのは偶然でしかない。意味はない。

運動し続ける内部の一瞬の仮固定としてただあるだけ。

そんな内なる有限性、無意味さを肯定すること

これは

無限意味を思う脳と、有限無意味である身体という2項対立からの脱構築だといえると思うのです。

 

哲学書って取り付く島のない難解なものが多いと感じますが、著者は彼の膨大な哲学に関する知識の中から選択して非常にわかりやすいストーリーに仕立てています

それを日常にも応用し、本にもしています

哲学に関する本をこんなに面白く読むことは私には珍しかったです!

 

【『サピエンス全史』をどう読むか】を読んで

この本を読みました

「サピエンス全史」を読んで著名な方々がその印象を語っています。

「サピエンス全史」私は全部を読んだわけではなく、途中は飛ばし読みでした💦

でもおよその概要がわかるので、この中に書いてあることも理解できました。

中でもお二人の考察が興味深かったです。

大沢真幸さんと福岡伸一さんです。

特に大沢さん、本の考察というより彼の持つ知識そのものと、その示し方が絶妙です。

その一つが

知への姿勢。

❛人間には知ることに対する本能的な欲望はない❜

❛知というのは人間が世界と付き合うにあたって安心したいということのあらわれ❜

❛無知を自覚することは人間にとって不安で、かなり苦痛なこと❜

物事を知りたい、知識を増やしたい!というのは食欲のような本能的なものでないようです。

確かに

本能的な欲望が満たされているときに、知ヘの欲望が湧く。

身体が危機的な状態の時に本を読もうなんて思わないし。

❛知というのは人間が世界と付き合うにあたって安心したいということのあらわれ❜

私は自分で知りたい欲が強い方だと思っています

でも

それはなんでだろう?と追及したことが無かった。

せいぜいそれが個性だと思っていた。

自分が知ることでいつか誰かの役に立つだろう

とか

いざというときにうまく行為できるだろう

とか

知ることそのものに快感がある

とか

そんな見解は持っていたけど

突き詰めていけば

そこに

【安心】があるから⁉️

 

私の中にずっとある知識への欲望は

身体が快適に動かせる方法をもっと知りたい、様々な体の状態の人にも対応できるような知識を増やしたい、ということ。

最近の知識への欲望は

神話の世界を知りたい、歴史を知りたい、英語力つけたい、などなど

コレって

知らないことによる不安を解消したいから⁉️

英語力は九州旅行でまたまた感じていたので。

タイのみんなは英語が堪能だったんです!

英語話せたらもうちょっと孤独感なかったのに(´;ω;`)

❛無知を自覚することは人間にとって不安で、かなり苦痛なこと❜

知りたい私は、【安心】へ向かおうとしていたのか!

言い当てられた感じがしています。

必要な真理はもう知られている、あるいは少なくとも自分は知らなくてもすべてを知っている人がいると思うことで人間はすごく安心するということがある。たとえばブッダはすべてを知っているらしいと思うと安心する。

確かに私は

この世の中で誰も知らない知識を得たいとは思わない

そんな大それたことではなくて

誰かのように知識を得たい

とか

誰かと対等に話せるようになりたい、憧れの人に少しでも近づきたい

とは思うけど。

 

大沢さんは

サピエンス全史を読んで考えたくなることが複数浮かんだようです。「この本は探求のターゲットをうまく見つけてくれるんです」、といってます

そしてこうもいってます。

(サピエンス全史のような本を読むということは)単に物知りになるということではない。こういう包括的な書物は、それぞれの社会や人生の決定的な選択に対して自信を持つことにつながります

しっかり選択をするためには世界がどう見えているかということがまずなければならないはずです。

現在、地球のどこにも我々と関係ない人はいなくて、空間的にも時間的にもものすごい広がりの中でいきているはず

私は

大沢さんの見解の文を読んで

『サピエンス全史』を読んだ時以上に

自分を客観視することが出来ました。

 

また大沢さんの本が読みたくなった。

安心のため、です(笑)

 

 

 

 

 

時間のストレス解消も体でできる!

今週は背中を柔らかくするレッスンを行っています

体の各所からアプローチしたり

人の背中を借りたり

呼吸を送りながらそこを手当てしています。

すると最後にただ立つ(ターダアーサナ)をしたときに

体の前面にも背面にも頼りすぎずに立つことができる感覚になっています。

「楽に立てる」「すっと背が立つ」「全身を均等に使っている」

そんな感覚です。

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立っていることが心地よい、いつまでも立っていられそうな感覚。

このバランスの良さは時間の観念にも転用ができると思います。

時間の中にバランスよく自分をおくことが出来たら

どんな時でも、どの瞬間も、幸せ(⋈◍>◡<◍)。✧♡快適(⋈◍>◡<◍)。✧♡でいられると思うのです。

そのヒントがこの本にあった

それを思い出しました!!

 

以下過去のブログの引用です

ちょっと小難しいとこは読み飛ばしたり、ゆっくり読んでください。

最後に自分のコメントが再びあります。最後までどうぞ!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

真木悠介は本名は見田宗介

今月亡くなったそうです。

弟子で同じ社会学者の大澤真幸さんが追悼文を朝日新聞にあげていて

それを読んで代表作を読んでみたくなったのです

それがこの本「時間の比較社会学」

私は大澤さんの本は対談を読んだことがあるのですが

その大澤さんが18歳の時この先生に出会って、その話を聞いて開眼したのだそうです

その文章には無駄がない、という評価通り的確な言葉を丁寧に選んでいる感じがする文章です

だから

読み飛ばすことが出来ないし

3回くらい繰り返し読まないと進めない文が1ページに複数あるッ

時間がかかりました

でも

手元に置いておきたくなる本です。

 

以下内容です・・・

人生が短いと感じるのは

「時が永遠に続くものだ」という思いがあるから

それから

人生ってはかないなあって思うのは

今をなおざりにしている証拠。

これから起こる(であろう)結果に意味がある、今は未来の原因なんだと

つまり

今、存在する意味は常にそのあとの時間のためにある、との思いは

未来を想定した地点から今を考えることになる。

未来に万全に備えるための今

その未来の

行きつく先は

「死」

であるから

存在の意味、生きる事がむなしいと思えるのは当然でしょうと。

未来のための今ならば、過去は無意味で、すぐ過去になる今も無意味なものとなってしまう!

そりゃむなしい(´;ω;`)

 

コンサマトリー(現時充足的)な感覚を喪わないこと

過去は無意味なものでなく

❝存在のうちに累積していく❞と考えるならば

取り返しがつかない過去であっても、それは現在に生きていると思える

そして時に対して

それを時を超えた視座でジャッジするのでなく時のうちに充足する感覚を疎外しないようにすること

そこが

虚無から離れること。

私たちが時の恐ろしい呪縛から解放されている時(コンサマトリー)は

他者や自然の中で自我が溶解している時である

現在は未来の理想実現のためにある。今にそんな価値しか見いだせないほどに空虚になるのは

周囲の人間や自然と融和する感覚を失っている時だといっています。

 

以下、引用した方が伝わるので引用。

ここ、私が最もうなったところです!

存在のうちに喪われたものを、ひとは時間のうちに求める

存在のうちに喪われたものを、ひとは時間のうちに求める (2回繰り返し)

けれども時間は我々をただ別の存在へと導くだけだから存在のうちに我々が見出すものを拒んでいるものを、時間が与えてくれることはない。

時間がニヒリズムの元凶であるのではない。

ニヒリズムが元凶としての時間を存立せしめる

たった今存在する感覚を持つことが出来ないそれを、ひとは未来という時間の先に求める

今感じられない充足感を未来に得られるはずだと希求し続ける

でもそれはかなうことはない

行きつく先にも何もない、求めるものはそのさらに先に在り続けるのだから。

その姿勢なら時間の呪縛から逃れることはできないのだ(わたし的解釈です)

以下引用

死の恐怖や生の虚無とは知の地平の範疇ではなく、ひとつの生きられる戦慄である以上、我々をそこから解放する認識は、我々の知によって知られるばかりではなく、我々の生によって知られねばならないはずだ。

知がそれ自体として開放する力を持つということはない。知が生き方を変える限度においてだけ、それは開放する力を持つのだ。

生の虚無から脱するのは

知識だけでなく、生の感覚に拠るんだ!

今、感じる生の感覚

自我の融解、これは何だか難解だけど

静かに座って

今ここで向き合える感覚なのだと思うのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

長い引用でしたが

過去は自分の〝今〟に常に生きている、自分の彩となっているもの

過去に引きずれれることなく

未来に傾倒しすぎない

すると

たった今に標準が合ってくる(これって中々合いそうで合ってない時多いと思う)

今、ここに体が在って(身体という)自然や他人を通じてそれが感じられる

それが時間の中で心地よくバランスをとるということ!

 

結論(わたし的)

なーんにも考えなくていい

無心に体を動かす時間って実は

最高に幸せな瞬間なんです

単純すぎる(笑)

 

 

 

 

 

今だけの会話を!!

昨日、友人と話をしていて気づいたことがあったのでシェアします

会話ってときに思わぬ方向にワープしていくことがありますよね

そんなこと話すつもりはなかった!とか

そんな情報もらえるなんて!とか

よくありますよね。

下恵土の教室に来て下さる方々とお話ししていると

戦国時代にとんだり、中国にいったり、本やYouTubeになったり、、、とよく飛びます(笑)

昨日もそれに似た感じだったんです

以前ブログに書いたことを思い出しました

この本を読んでの感想をつづったものです。

 

以下青字はブログからの引用です

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

コミュニケーションは一方通行のものでなく

〝自分が言いたいことを相手がいかに理解しているか〟に注意を向ける

と深まっていく。

それは

言葉に現れないものを観察する、ということですよね。

筆者は

会話はジェスチャーゲームだと言っています。

非言語」コミュニケーション(NVC):其の一「目は口ほどに物を ...

それから

ここ面白いところ、と思ったのですが

人間の脳には限界があって

記憶の容量も認知能力にも限界がある

その制約の中で私たちは会話している

そのため

聞くときは

聞こえてくる言葉の塊を小さな塊に区切って、塊ごとに処理してから、それをつなげて全体を理解する

逆に

話をするときは

漠然と頭にある大きな塊を小さな塊に分解してから口に出してる

のだそうです。

なんと素晴らしい脳内調理!

この調理はその時、その場でしか行えないもの

だから

会話って

その場限りで成立するもの、

今を逃したら二度と同じものとして成立しないものといってます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

話すときの脳のはたらきと

聞くときの脳のはたらきは違うんですね!!すっかり忘れていましたが。

以下再び引用です

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

人は自分の言いたいことを心の中で用意してそれを言葉にするのではない

(それなら再調理できそうだけどね、、、)

そうではなくて

その場で即興的に共同で意味をこしらえている

会話はたった今だけ成立するジェスチャーゲームだ

 

単語に本質的な意味があってそれが世界をすべて表してくれる、またそんな言葉ある、というのは幻想で

言葉って会話の中で突然に出てくるもの

その言葉は絶えず矛盾だらけの自分の世界の中から(瞬時に)呼び起こしてくるもの

その次の瞬間には水面下に沈んでいく

氷山の一角」の意味とは?使い方から英語や類語まで例文付きで ...

相手の世界から発起された言葉は自分の理解と合致しないかもしれない

でも

なんとかその場ですりあわせようとする

言葉を含めた2人の身体的やりとりで世界を創造しようとする

たったその時だけ立ち上がる世界を。

やはり

会話は結果のわからないゲームという例えもわかります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

自分が話す言葉は、自分の脳内の膨大なデータの中からその場に応じて編集されて表出するもの

でも

相手の脳はそれを理解するのには限界があります

同じ脳じゃないから当然ですね。

ときに

シャットアウトされたりエラーが起こっている場合もある

だからこそ会話では

相手のエラーに気づくことも大切です。

気づいたら編集しなおせばいい。

どうやったら伝わるか

聞くときも同じ、どういうことかのすり合わせ、およその合致点の探り合い。

相手の言っていることって、およそ大体こういうことか

即興で確かめ合ってる!

自分の脳を表出すると同時に相手の思考を身体を受け入れ続ける

それが

決して100%ではない相互理解になって

世界が創造されていく

その時、その瞬間瞬間に創造される二度と復元できない世界。

想定できない予期できない世界だからこそ

会話の楽しみはある

 

今日もそんな会話ができる日でありますように・・・・

 

 

 

家で過ごす日

多治見市では今日、朝から大雨警報が発令されましたね。

お盆休み、最後の一日という方も多いのでは、、、

こんな時は

晴耕雨読!ですよね

 

boy-reading-a-book-53-children-silhouette-decals_415 (2) – How to Teach ...

今、読んでいる本はこれです

出口さんの日本史を読むと

歴史って有力者の自己都合で出来上がっていくんだと思い知らされる。

人間の欲望にもターゲットを当てて

それを代弁するかのように語られるので面白くて、その時代に興味が持てます。

同じように

世界史も語っている方です。(長男はそちらも面白いと言ってました)

読書したり

あと

映画鑑賞(家で、です!)

昨日はゴッドファーザーがBSでやっていたのでほぼ、みました。

ゴッドファーザー(洋画 / 1972)の動画視聴 | U-NEXT 31日間無料 ...

キッチンでは

相変わらず朝から毎日のように玉ねぎをいじっています

玉ねぎサロンの準備もかねてます。

そうそう

福井に海釣りに行ってきた弟一家から大きなアジとサバをいただいたので

内臓をとって

ユーチューブに教えてもらいながら3枚におろし

皮をはいで、骨をきれいに取り除いて

“なめろう”にしてみました

ここにも玉ねぎを使ってます!

残りは

南蛮漬け

今回はこれも試食に持っていく予定です!

サバは

みそ煮ならぬ麹煮

ただの野菜炒めにも

玉ねぎマジックをきかせます

最後に

これは何でしょう??

こちらも試食に持っていきますね!

玉ねぎサロンは

16日(水) 14:00~ 養正公民館

17日(木) 10:30~ 下恵土地区センター

あと2回開催します

ご希望の方はお知らせくださいね!

 

会話はジャスチャーゲーム

この本を読みました

[モーテン・H・クリスチャンセン, ニック・チェイター, 塩原通緒]の言語はこうして生まれる―「即興する脳」とジェスチャーゲーム―

本の引用と自分の思ったことを紹介しますね

 

対話は相手がいることで成立する

もっというと

相手を理解しようとすることで成立します

自分の言う言葉をどこまでわかってくれるか

そして相手の言う言葉をどれだけ受け止められるのか

言葉一つ一つの意味を追って、その文章を解釈するだけでなくて

その時の互いの環境や価値観や経験を想像して

相手の存在そのものに触れにいこうとするものです。

会話をポンポン返せない】という人が知るべき1つの処方箋 ...

相手の価値観や環境なんてわかり切れない

言葉は氷山の一角です

その人の意識の中のほんの一部の表出に過ぎない

氷山の一角」の意味とは?使い方から英語や類語まで例文付きで ...

だから

わかり切れないこと前提で

会話は協力のもとに成り立っていくものなんですね。

これは

判断材料が多いほど理解も進みます

相手が何を知っていて何を知らないのか

今、どんな気持ちなのか、何を気にしているのか

とか。

 

米国では科学コミュニケーションを向上させる目的で即興劇が利用されているそうです

例えばミラーリングといって

二人一組になって代わる代わる、一方が始めた動作をできるだけ真似て鏡のように真似していく

俳優さんがやるレッスンみたいです。

真似する人と真似されやすい人の特徴 | WORKPORT+

最初は鏡の者は遅れをとるけど

練習を重ねていくと二人の動作はだんだん同期してくる

互いに相手の心を「読む」ようになるので

何となく次の動作が予測できるようになる!

こういった練習は

2人の俳優の間の協調性を生むだけではなくて

芝居を見ている観客の心理状態を俳優が気付きやすくなる、ということもあるそうです。

この取り組みを

アラン・アルダという俳優、作家さんが

科学者にやってもらったのだそうです。

アルダさんは

多くの科学者が熱意をもって自分の仕事に取り組んでいるにもかかわらず、それがうまく聴衆に伝えられずに苦労していることに気づき、

自分がやているミラーリングなどの即興劇を科学者に勧めた!おお~

科学者が聴衆の視点で世界をみていないのでは、と考えて

俳優がやるような練習をしたら

科学者はてきめんに他人の気持ちを読むのがうまくなったのだそうです!おおおおお~

上から目線でなく相手と同じ目線で話せるようになったって。

このアルダさんのメゾットは全米の大学や研究機関を中心に広く採用されているのだそうです。

 

コミュニケーションは一方通行のものでなく

〝自分が言いたいことを相手がいかに理解しているか〟

に注意を向けると深まっていく。

それは

言葉に現れないものを観察する、ということですよね。

筆者は

会話はジェスチャーゲームだと言っています。

非言語」コミュニケーション(NVC):其の一「目は口ほどに物を ...

だから

身振り手振りや表情を変化させながらのジブリッシュでも理解は進むはずなんです!

これが言いたかった(笑)

 

 

そらから

ここ面白いところ、と思ったのですが

人間の脳には限界があって

記憶の容量も認知能力にも限界がある

その制約の中で私たちは会話している

そのため聞くときは

聞こえてくる言葉の塊を小さな塊に区切って、塊ごとに処理してから、それをつなげて全体を理解する

逆に

話をするときは

漠然と頭にある大きな塊を小さな塊に分解してから口に出してる

のだそうです。

なんと素晴らしい脳内調理!

この調理はその場でしか行えないもの

だから

会話って

その場限りで成立するもの、

今を逃したら二度と同じものとして成立しないもの、といってます。

だから

人は自分の言いたいことを心の中で用意してそれを言葉にするのではない

(それなら再調理できそうだけどね、、、)

そうではなくて

その場で即興的に共同で意味をこしらえている

会話はたった今だけ成立するジェスチャーゲームだということなんです。

 

単語に本質的な意味があってそれが世界をすべて表してくれる、またそんな言葉ある、というのは幻想

言葉って会話の中で突然に出てくるもの

その言葉は絶えず矛盾だらけの自分の世界の中から(瞬時に)呼び起こしてくるものだから

その次の瞬間には水面下に沈んでいく

嬉しい、悲しい、楽しかった

は過去の一瞬のこと

思ったこと、感じたこと、見たことも

それを現す言葉もはかなく消え去る

氷山の一角」の意味とは?使い方から英語や類語まで例文付きで ...

相手の世界から発起された言葉は自分の理解と合致しないかもしれない

でも

なんとかその場ですりあわせようとする

そうして

言葉を含めた2人の身体的やりとりで世界を創造しようとする

たったその時だけ立ち上がる世界を。

やはり

会話は結果のわからないゲームという例えもわかります。

 

会話を考える

言葉を考える

ジブリッシュを考える

いい機会となりました。