考・わきまえる

一昨日の朝日新聞

“耕論”のページの今週のテーマは

考・わきまえる

森喜朗氏の発言によって最近とり沙汰されている、「わきまえる」について3人の方の考えが載ってました

評論家の女性は、

男性優位ともとれる過去の社会の中で、自分の主張の機会を逃さないようにするために

あえて、わきまえてきた、って

わきまえず、言いたいことを発言するために。

中国人の会社経営者は

日本には、自分の階級、階層の意識があって

自分の階級に合わせて物を言え、という暗黙の秩序がある。

その階級の壁はは男女にもあるし、社会にも様々にはびこっていている

日本では秩序をひっくり返すような大革命が起こっていないから、その暗黙の秩序があり続けるのだ、と言っている。

わきまえる、かあ、、、、

わきまえろ!って強く要求されたら自分の能力のなさを思わずにいられないし

もっとわきまえて!場の空気を読んで!って思うような言動に出くわすことがある

これとは逆に

今日はある方が、自分の直面する問題に対して

わきまえすぎなんじゃないかなあ

と思っていたので

それをわきまえずお伝えした。

どんなに心配をしても、その気持ちだけで相手の助けになりえないということ

子供の問題を自分の問題としてとらえ過ぎないということ

相手の言葉の中に自分の感情を乗せすぎないということ

その他色々。

それが言えたのは再びこの本を読んだからかもしれない

私たちはどんなに冷静になっても

本当に公正に、客観的に、事態を認識することは出来ない

なぜなら

客観視しようとするするその心がすでに公正でないから

その心は

一見どんなに落ち着きはらっていたって自己の関心や利益や保身を超越して物事を判断することは出来ないから。

そりゃそうだ

神様じゃないから

自分の色メガネを透明に変えることは出来ないんだ。

その神様という存在だって

人間が作ったものなんだあああ

と、マルクスは宗教を批判した、そうだ。

中世、「宗教の本質は直感的感情だ」と言い放った人が出て(シュライエルマッハー)

そこから神様は心にある、ということになって

神学は心理学に改称されていったという。

それでも宗教はなくなっていない、この現代も。

それは

人を人智を超えるものを望んでいるからなんだと思う。

私たちは

自分の認識の限界を知っている

真に客観視などできないとわかっている

だからこそ

それを超える存在、力を信じたい。

その願望が神の存在を支えている。

宗教心、宗教観というのは言葉の限定を超えるもの。

不可知の神様を、それを知ることが不可能だとどこかで知りながら(あるいは100%可能だと思う人もいると思う)その存在の可能性を信じて有限な世界に挑み続けていく、それが宗教心。

マルクスはそれを民衆のアヘンだといった

アヘンに救われようとする者は多くいるし

実際に救われるのだと思う

だって

そこだけが

分断のないところだから。

特にヴェーダの教えの中での神は

無限で、永遠に在り続ける。

それが

世界を作っている

有限なる世界を。

わたしたちの世界はすべて有限なもので出来ている

有限だから分断が起こる

自分を保身したり、自分と相いれないものを遮ったり、批判したり

分断なんてなくせない、差別だって

階級だって性差だって年齢差だってずっとある

だから

わきまえ続けなきゃいけないんだ、自分の言動を

有限だけど続いていく

それが私たちの世界なんだから

だから

わきまえつつ

わきまえすぎないことだと思う

この矛盾

これをバランスするためには

ユーモアしかない!

この多事奏論の記事が

同じ紙面で耕論の下にあった

それで

何だか救われた私でした

どうにもならないことは

笑いの言葉に転化!

メールや雑誌でよく見る (笑) 表記は、明治時代が起源: アライブ ...

そしたら

この限定の世界を楽しめる!