無明から光をさがしていく

 

仏教では

この世界は常に変化していくものと考えます(諸行無常)

今日見た土岐川の流れのように

そしてその実態は

色即是空 存在するものは空(ゼロ)から因果の力によって発現している

空即是色 世界はは空であるがゆえに実体があるように存在することが出来る

ととらえます

空という原因が世界という結果になっていて

世界があるという結果は空が原因である

として

今の世界を因果の双方からとらえて実体のない空だとしているのです

インドで起こったゼロの概念、

これは

理解しがたい概念かもしれません

仏教の唯識論では

(自分は空なのだから)自分が存在し、実体があると思うことは無名であり、苦の原因である

無明による実体への執着をなくせば縁起の理が見えてくる

としています

縁起の理というのは

すべてのものは

関係性の中でその存在が確定するということ

私の存在の確定は、私以外の誰かによる私との関係性の結果として成り立つ相対的なものである

私以外の誰かが私を捉えるから結果私が存在する

私以外の多くの力によって私が成り立っているということ、です

普通の考えでは理解が困難ですが

無明の強さですー

すべて世界は同様に、世界をみるものによって作られている

これが縁起の理

池は

池と認識されることによって池になる

つまり

世界は見るものによってその都度形作られている

から

自分にも世界にも実体がない

誰かに光を照射されて初めて映し出される陽炎のようなもの、ということなのです

今日は永保寺周辺を散歩しました

唯心でいうと

お寺の像が目に入ってくる

そのときはじめて自分の世界にそれが現れる

石を踏む音が耳に入ってくる

世界にその音があることを確認できる

感じたことが世界になる

私たちは世界を言葉にして、認識する

言葉があるから存在を生み出せる

言葉にないものは存在させられない

 

沸き起こる感情は自分一人の意思によって起こるものではなく

他との関係性の中で生じるもの

怒りや悲しみは、そういう言葉があるからそのように感じる

そうやって

他者との関係性の中で意識ははたらく

これも

縁起の理なんだ。

 

唯心論だと

自分は自分以外の多くの存在による関係の中で自分であって

自分で自分の存在を確定することはできない

自分てなんだろう?

これは私が小学生時分から今も時々起こる疑問なのですが

縁起の理においては

自分は無いのです(無我)

自分は他者との関係の中で在るものだからです

 

無明さゆえに

私が怒る

私が悲しい

私の時間

私の体

などなどの執着が生じますが

そもそも自分てほんとに実在するのか?

いるかいないかわからないなら、この怒りはどうやって起こるんだろう

なーんてことを真剣に考えてみると

もしかしたら

変化があるかもしれません

もしかしたら、、、です