ヨガの目的を改めて言葉にすると

木曜に

フェイスブック上でトークライブをします

それにあたって

「何でヨガを始めたのか」「ヨガする目的は何なのか」

改めて再考しようと思いました

いつも考えていることではあるけれど、新しく“今”言葉に置き換えておこうと思いました。

まず

ヨガを始めたのは、新しい環境に自分を起きたかったからです。

今から20年ほど前

私は

未就園の子を連れて、自分が何か出来ることを求めていました。

何でもよかったのかもしれません

その時に友人に誘われて行ったところがヨガの教室だったのです。

その後転居して別の教室に通うようになり、先生に誘われてヨガの講座を受けに行くことになりました

数人の生徒さんたちと一緒に。その時はヨガの勉強って面白そうだな~という感じでした。

何気なく始めたそこでの学びは

結局3年続きます。

講座は

ヨガのルーツやヨガって何なのか、ヨガをすることで何がどのように変化するのか

という座学が中心でした

無料イラスト セミナー 会議 講義 ピクトグラム

 

あと毎回、内観タイムがありました

例えば

「家族にしてもらったこと、してあげられたこと」を考えなさい

とか

「過去に、これ以上ないというくらい努力出来た経験は何だったか」

「身、口、意(つまり態度や言葉や気持ち)にわたって他人の何かを盗んだ、ということがあるか」

などなど色んなテーマを

15分くらい静かに考えるのです

そしてその後、まずは先生の言語化を聞き⇒ここで先生が何を話すか聞くのも楽しみでした

さらに二人一組ペアになってそれを言語化するのです

対話のイラスト素材 [19975450] - PIXTA

ここでよくよくその当時の苦境を語っていたように思います

そして

毎回課題が出てそこにも内観につながるような出題がいくつか出たのです

このレポートを描く作業

これも内観作業に近く、書くことでその時の気持ちの整理になりました。

宿題は嫌いだけど課題は苦にならなかった!

月に一度のこの講座は

本当に面白く、楽しいものでした。

こんな学びがあるのかと。資格や目的達成のためでなく、ただ純粋に学びそのものが貴重でした。

私が学んでいた場です!

https://www.yoganiketan.jp/yicytic2016.html

 

ヨガの始まりは5000年前のインダス文明の発祥の頃にさかのぼり

今から4500年前に栄えたモヘンジョダロという都市国家の遺跡から瞑想して座るヨガ行者のハンコが見つかっています

そして2000年前にヨーガ・スートラというヨガの教科書みたいな経典が書かれたのです

 

この教科書の冒頭、第1章第2節にはこうあります

ヨーガとは心の働きを死滅することである

この言葉は、強烈パンチでした!

そして

何をどうすればそれが達成できるのか

そして

それ、出来たらどうなるのか

注意点は何なのか

等が教科書には指示されているのでした

そこで大切にしていくことは

自己の客観視

8つの部門を観ていくのです

やってはいけないことをしてない?

するべきことは何かわかっている?出来てる?

というように自分の行為や態度や、気持ちの向け方を見直すのです

そして

肉体の客観視もしていきます

自分の肉体の感覚を観察

自分の呼吸を観察

そして

自分の意志、知性、記憶の客観視をしていく

これがラージャ・ヨーガ(ヨーガの王道)です

そうやってあらゆるレベルで自分を観察する

観察するということは

見ているものと見られているものを分けるということです

肉体は見られているもの、それを「私」がみている

呼吸を「私」がみる

そして

自分の認識、感情を「私」が観るというように

体も心も“見られているもの”として、それらを見ている「私」と分けるのです

認知を認知するということをメタ認知と言いますが、とにもかくにも分けて観察します。

内観はまさにこれメタ認知なんですね

当時学んだこれを読み直しました

 

ヨガは結ぶという意味がありますが

そうやって自分あ(私)が何に結びついているのか観察するのです

肉体に強く支配されているのか、お金なのか、家族なのか、物なのか

それとも

記憶なのか名誉なのか、幸福や健康という概念なのか

「私」が何と結び付いているか、

それは執着にもなりますが

何かと結ぶことは実は心の安定になるのです

船が港から離れていかないように、波があっても同じ場所に停泊できるように。

でも!!

実は「私」が結びつくこの世のどんなものも不変に安定した寄港地にはなりえないのです

唯一の例外を除いて。

それが何なのか

それは

無辺なるもの

との結び付きなのです

これと結び付くということは

もはや

心は死滅し、「私」が無くなっている状態

見るものと見られるものとの区別がなくなる境地

それが

サマーディー(三昧)

温泉三昧とかスキー三昧とかで使うざんまいの境地です

スートラにはこうあります

2章46節

坐法は安定して快適なものでなければならない

22章47節

弛緩に努め、無辺なるものに入定することで坐法は熟達する

2章48節

その時2極の対立物によって害されない

この3節もよく目にしました。

誰でも坐法は簡単にとれます

ただ

熟達した坐法がとれているか

安心して安全で、揺るぐことのない寄港地せ坐れているのか

そこが問題です!

熟達して坐る

私が学んできたこと、今後学び続けることはここを目指し、ここに集結するのかもしれません

 

Aヨガでは

動きを増やし、変化させることで自己の体の客観視をします

アレクサンダーテクニークでは反対に

今すでにしている動きを客観視することで無駄をやめて必要を選択します。

弛緩に努めるには動きの要素も必要ですので、これは私には体への双方からのアプローチとなっています

いずれの方法も

自分で動きを選択してその結果を観察するもの。

動きを変えて、観ての繰り返しです

こうやって

肉体を観ていくことは

心のはたらき方、認知を観ていくことにつながっていく

まさにヨガの一部門なのです!

安定した坐法

そこには二極(善悪とか幸不幸とか美醜とかの対極の概念)に害されることのないサマーディの境地があります

そんな風に坐りたい

坐ってみましょう

それが目的と言えます