彼女のことを擁護する記事を始めてみました。
そして
とても温かい気持ちになりました
こういう励まし方あるんですね!
ヨガベースの動作向上レッスン
彼女のことを擁護する記事を始めてみました。
そして
とても温かい気持ちになりました
こういう励まし方あるんですね!
BSでやっていた「ヒューマニエンス」をみました
走ることの効果が色々わかりましたよ
特に
脳への!!
①前頭前野が活発になり注意、集中力が高まり認知機能を高める
②海馬を活性化させる(記憶力アップ)
③抗ストレス
筋肉からのホルモンによっても
神経、血管の再生、記憶力向上の効果があるそうです
走るといっても、全力疾走ではなく
ゆるく、楽しくがイイって。
インターバルランニングといって
30秒走り30秒歩くを4セット繰り返すのもイイようです
そもそも私たちの足の骨は走ることを可能にするよう進化してきたようです
ポイントは
かかとが大きくなったこと!
大きなかかとに体重を乗せられる
かかとがあることで足裏のアーチがある
着地の瞬間アーチが低くなって弾性のあるアキレス腱の伸縮を使える
かかとも進化の果てのものなんですね
走ることは
体のエネルギーを生み出すミトコンドリアの新生力を高めるため
長寿にも関係するそうです
私は今日は走らないまでも歩くことでかかとを使いました
いつもの可児の散歩コース
今日は空気がひんやり。雪がちらついていました
脳への効果あったのかなあ
気持ちよかったです~
自分がぎっくり腰を経験したので
❝痛み❞
のことを考えています
痛み、で気付いたことをお伝えしますね
先日この本を読みました
痛みは、交感神経優位(神経が興奮状態)の時に感じやすい。
なので
ストレスがある時は痛みに敏感になります
例えば
気圧が低くなると頭痛や慢性痛がひどくなる
イライラしている時に胃が痛くなる、肩がこる
睡眠不足の時に頭が痛くなるなど、、、
もちろん
痛みというのは体が送る脳へのサインなので、必要な感覚ではあります
でも
ひどい痛みは生活に支障をきたします
だから
身体は内因性の鎮痛物質を持っているのです
それが働くのはどういう時か
この本には
食事、内臓を整える、運動、前頭前野を活性化する
等があげられていました
運動によって内因性のオピオイド(鎮痛物質)が放出されることが分かっているのだそうです
前頭前野の活性化は、瞑想などの内観で可能です。
身体の観察時も同じ効果があるので
この2点はヨガでも行えます!
そして
その観察法なのですが
痛みのある局所を観察するのではなく、
『体全体を観察する』のがさらに有効かと思います
先日、スキーに訪れた勝山で温泉に行き、そこのサウナに入りました
数分間サウナで汗をかいた後で水風呂に浸かりました
冬のこの時期、水風呂に浸かるというのは結構な勇気がいります( ;∀;)
そこで気づいたのですが
足に水をかけると
きゃー冷たい!
足首まで水に浸かってもすぐに出たくなります
でも我慢して膝まで足までとだんだん浸かっていきます
お腹まで浸かってもまだ苦行状態!!!!
でも
そのまま一思いに肩まで浸かると
ん?
あれ?
そんなにつらくないのです
そこで冷水と体内の水分を同調させるようなイメージで呼吸してみると
おおお
何だか体感水温が上がったような感じがして
そのまま2、3分はいられるのです
決して苦行状態でなく、です
つまり
身体の一部分が冷たいと苦痛に感じるのですが
肩まで浸って体の大部分が水の中に入る時、苦痛は遠のきます
顔面は浸けられないので手ですくって濡らしてみましたッ
そして
その冷たさを全体で感じてみたり
また
ヨガの時にするように呼吸での背中の動きを感じてみたりしました
すると 何だか心地よささえ感じます
この観察で
冷たい!と思うと体全体が冷たいという言葉に反応して交感神経優位になると思いますが
(言葉にすると)冷たい!という皮膚表面からの刺激を、冷たい!以外の言葉、あるいは言葉にならないような皮膚感覚を味わうようにする
すると
何だか体が順応しやすくなります
❝痛い❞も全体で味わう、観察するということが可能かと思うのです
そして
痛みの時に避けた方が食品があると教えてくださった方がみえました
彼女が行っている接骨院の先生に指導されたそうです
それは・・・
*菓子類、菓子パン、清涼飲料水、果物
*カフェインを含むもの
*アルコール類
*痛み止め等の薬を最小限にする
*添加物の多い食品
等です
水分とたんぱく質は適切に摂取すべし!ということでしたよ~
以上痛みに関しての考察でした!
2日間滑ってきました
日曜は曇り
今回は娘と二人で滑りました。
が
この日の午前中
私がトイレ休憩している間にすれ違いになり
別々で滑っていたのです。
お昼前に一緒に休憩しようと思い、
レストハウスに行く時間を決めてラインしたのですが
既読にならず
同じリフトを使っているはずなので
「もう一本滑ります」、とラインして
滑るも返事なし
これを
3回繰り返しました
が
既読になっていないッ
最初にラインしてから1時間15分もたっていたので
仕方なくリフト乗り場で待機していました
が
姿がなく
電話も出ず
もしやどこかに突っ込んで怪我でもしているんじゃないかと心配になってきました
似たような格好の人を追いかけるようにリフトに乗るも
降りたところで別人であると発覚
いったん滑って
もう一度降りてく来る3コースの斜面全体が見えるところで見張っていると
おお!あれはそうだろう、という姿を発見したのですが
そのまま即座にリフトに乗っていくではありませんか
しかも
男性と一緒に!!
「こらあああああああ!」
と後を追いかけリフトに乗り、先に降りていく二人を後ろから尾行すると
娘はその男性に滑り方を教えてもらっていました
私は
娘がいたと確認できたことで
あとはどうでもよくなり
一人で滑り降りて休憩しました。
最上部のレストハウスは食事の提供をしていないと知っていたので、持参したおにぎりを食べちゃいました。
その後また一人で滑りました
二人を遠くに発見したりもしました。
ま
身の危険は自分で守るしかないよね~
なるようにしかならんよね~
と思って、、、
そして
再会は、ばったり、ほんと偶然にリフト乗り場で鉢合わせしたのでした
男性は65歳の方でした
そして
今度はその方と3人でリフトに乗りました。
リフトで話をしたら
フリーパスを買って、年中ここにきていて
スキー場にたくさん知り合いがいる、という方でした
リフト上で
スキーの話で盛り上がりました
気さくで人の好い方でした~
そして
終了間近の最後の一本は
私もその方に教えてもらいながら滑りました
その方はとても熱心に
そして的確に
出来ていないことを指摘して
見本を見せながら先に滑って
滑りを見ては欠点を指摘して
まるで
スキースクールの先生。
娘は昼も食べず、3時間以上もみっちり指導を受け
へとへとに疲れていました
ラインも見ていなかったって
ああ
こんなことなら
もうちょっと早く割って出ればよかった、かな
でももちろん
「返事くらいしなさい」と小言を言いましたよ。
今日はその復習
今日は
福井には珍しい快晴!
白山もリフトから見えました
昨日、オンライン体操教室を主催されている
アレクサンダーテクニークの先生と対談しました
これは
体操教室に参加されている方に向けたものですが
ここに紹介します
お時間ある時に聞いてみてください
以前ブログに書いた事を話しています
少々マニアックな感じになっちゃったけど😂
いつものこと、
と、皆さんなら思ってくださる、、、、はず😆
さてさて
今日は快晴でしたね
私は祭日をいいことに
そして
夜のレッスンに間に合うように
行ってきました
木曽福島
またまた単独です
御嶽山!
雄大です〜
新雪ふかふかのゲレンデ
山頂は
こんな感じ
御嶽山と
白山‼️
今日は午後スキースクールに入りました
私の他2名の女子は
なんと
高校生‼️
そのことにも驚きましたが
先生の男性の指導が、とっても身にしみました
なんというか
超初心者モードで教えてくださったのです
いちお
中級コースだったのですがね。
始まりは
準備体操
「かがんでスキーの板の先端に触ってみましょう」
「後屈しましょう」
「上に伸びてみましょう」
「左右に倒れてみましょう」
「どうですか❓結構いけるでしょう、スキー板の上ではこんなに身体動かせるんですよ!ビクビクすることないんですよ」
おおおおおお
なるほど〜ヨガっぽい
その後
ストックなしでボーゲン状態の体重移動をゆっくりゆっくり2往復
ここまでで半分以上経過
小回り教えてほしいのに
と思っていたけど
なんだかほんと単純に楽しく、ただ、面白い
その後も
片足上げて滑ったり
ジャンプしたり
足広げて並行に滑ったり
そうして
重心の大切さを時間をかけて教わりました
とにかく前傾姿勢が大切なのだと。
今までの先生と全然違う角度からのコーチング
基礎の基礎が大切だと
そして
余裕をもって滑ることが大事だよと
それを
身体で覚えていこうね、というメッセージを受けとりました
私はとても楽しいひとときでした
スキーの実力が違う3人全員に学びがあったレッスンだったと思います
ほんと
勉強にもなりました〜
また、見に来たい〜
ポッドキャストで
京都大学名誉教授の乾敏夫先生の話を聞きました
とても興味深かったのでここにシェアします!
感情は脳で作られる!
感情を露にするってなんだか恥ずかしいことのように感じることがありますが
感情を持つことにはには意味があります
それは
⓵自分で、今自分がおかれた状態を知ること
不快なのか快なのかがわからないと身の危険が防げませんよね
②(表情などで)他者のおかれた状態がわかること
感情は自分を確かめ、他者を理解するために必要なものなんですね
では感情はどのように起こるのでしょうか?
脳は推理する
私たちはなぜ胃が痛いとわかるのか?
それは
胃が痛みを引き起こすのではなく
胃から送られてくる信号を基に脳が内部の状態を推測しているから
痛みは
自律神経を通して胃からの信号を受けた脳の推測反応なんですね
私たちはなぜ世界を見る事が出来るのか?
実はこれも
網膜からの感覚神経を基に見えるものを脳が推論しているから。
つまり
身体の内的環境も外的環境も脳は推論しているのですね。
これは
唯識(ただ識るという働きのみがある)に通じるものがあります
感情は主観的なもの
そこで感情の出来上がり方なのですが
2つの働きに要因があるのです
⓵身体の内部の状態を脳が推論する
何かのはたらきにより
心臓がどきどきする、胃が痛くなる、手に汗をかくなどの身体反応が起こると
身体の内部で変化が起こっていることを脳が推察します
ああ、心臓の動きがいつもと違うなあと。
その上で
②なぜそのような身体状態になったのかの原因を脳が推論する
このことで感情が勃発するのだそうです
これはかなり主観的な反応ですよね
ドキドキするのはなぜか?
恐れかもしれないし、緊張感かもしれないし、好き、だからなのかも!?
ドキドキを感じて、その後でその反応に見合う理由を脳が予測して感情となる。
⓵②のすり合わせが行われているのだそうです
感情のスタートは
何らかの変化に反応した体を脳が感知することから始まるんですね
内臓は感情発生の先回りをしている
ここも面白いところです
さて
身体の状態がわかる人は前向きであることが多いようです
調子がいい時もそうでない時も
内臓からのボトムアップをとらえて
なおかつ
脳で行うその感覚に対する推論の解釈、予測を間違わないこと
このギャップ、誤差がないほうがいいようです
内部からの信号を過大信号にとらえたり
はたまた
内臓状態を無視し過ぎないこと
ギャップをモニターしているところが脳にはあって、これがうまくいかないと精神的な疲労に、寝ても治らない疲労になるのだそうです
運動も脳の推測と反射で起こる
ここも面白かったところですが
運動時、例えばとても簡単に
コップをとろうとするとき
コップを持ったときの感覚を脳が予測するのだそうです
手が動く前に
脳はコップを持った時に感じるであろう重量感、手にかかる圧迫感、触感など、筋肉を通じて生じる感覚をを予測しているのです!
そしてその後
脊髄の反射弓がはたらいて勝手に動作をおこす!
反射って無意識に起こる反応なのですが
運動することは達成されたときの感覚を予測することで
コップを持ったり、ペンを持つのも最終的には反射
運動ってあえて正確にいうと
脳の予測運動から始まる反射
ということが分かってきているのだそうです
ってことは
反射には手を出せないので
予測脳が肝心!ということになります
この予測は
動作を変えていくこと、繰り返していくことで変化していくと思うので
動作の経験を増やしていくことで
脳の推測の仕方が変わると思うのです
脳の予測は共感につながる
最後に
他者とのコミュニケーションも脳の推測によって成り立つ、という話。
脳にはミラーシステムという働きがある
それは
笑顔の人を見ると、自分がそれをまねて思わず笑顔になり
その時に生じる自らの身体感覚に何らかの変化が生じる
それを感じるのと同時に
「ああ、おそらくこの人も同じ身体感覚を持つのだろう」
と脳で予測して
今、目の前の人も自分と同じ身体感覚を持っているんだ、と共通点を見出す。
つまり
身体感覚があるから
脳が推測することが出来るから
ミラーシステムという共感がはたらくのですね
脳の働きがわかると
さらに自分を知ることになる
そこに
何だかワクワクするような喜びがあります
仏教では
この世界は常に変化していくものと考えます(諸行無常)
今日見た土岐川の流れのように
そしてその実態は
空
色即是空 存在するものは空(ゼロ)から因果の力によって発現している
空即是色 世界はは空であるがゆえに実体があるように存在することが出来る
ととらえます
空という原因が世界という結果になっていて
世界があるという結果は空が原因である
として
今の世界を因果の双方からとらえて実体のない空だとしているのです
インドで起こったゼロの概念、空
これは
理解しがたい概念かもしれません
仏教の唯識論では
(自分は空なのだから)自分が存在し、実体があると思うことは無名であり、苦の原因である
無明による実体への執着をなくせば縁起の理が見えてくる
としています
縁起の理というのは
すべてのものは
関係性の中でその存在が確定するということ
私の存在の確定は、私以外の誰かによる私との関係性の結果として成り立つ相対的なものである
私以外の誰かが私を捉えるから結果私が存在する
私以外の多くの力によって私が成り立っているということ、です
普通の考えでは理解が困難ですが
無明の強さですー
すべて世界は同様に、世界をみるものによって作られている
これが縁起の理
池は
池と認識されることによって池になる
つまり
世界は見るものによってその都度形作られている
から
自分にも世界にも実体がない
誰かに光を照射されて初めて映し出される陽炎のようなもの、ということなのです
今日は永保寺周辺を散歩しました
唯心でいうと
お寺の像が目に入ってくる
そのときはじめて自分の世界にそれが現れる
石を踏む音が耳に入ってくる
世界にその音があることを確認できる
感じたことが世界になる
私たちは世界を言葉にして、認識する
言葉があるから存在を生み出せる
言葉にないものは存在させられない
沸き起こる感情は自分一人の意思によって起こるものではなく
他との関係性の中で生じるもの
怒りや悲しみは、そういう言葉があるからそのように感じる
そうやって
他者との関係性の中で意識ははたらく
これも
縁起の理なんだ。
唯心論だと
自分は自分以外の多くの存在による関係の中で自分であって
自分で自分の存在を確定することはできない
自分てなんだろう?
これは私が小学生時分から今も時々起こる疑問なのですが
縁起の理においては
自分は無いのです(無我)
自分は他者との関係の中で在るものだからです
無明さゆえに
私が怒る
私が悲しい
私の時間
私の体
などなどの執着が生じますが
そもそも自分てほんとに実在するのか?
いるかいないかわからないなら、この怒りはどうやって起こるんだろう
なーんてことを真剣に考えてみると
もしかしたら
変化があるかもしれません
もしかしたら、、、です
今朝、布団の中で目を覚ますと
風の音がするのが聞こえてきました
風が木を揺らし、葉を震わせる音
風が窓に当たり振動させる音
不規則なその音をしばらく聞いていて
思ったのです
「ああ、私は今、(音の)変化を感じることが出来ているんだ」
と。
では
音は存在するものなのか?
否
私達の持つ耳の機能によってそれは音として成り立つのです
音の感知力は動物と人間では違うし、人によっても違います
私達一人一人がその機能によって、音を成立させ、聞いている
耳が音を生み出しているのです、この世界から。
視覚、嗅覚しかり、味覚、触覚も
この感覚器官をもって世界を作り上げている
感覚器官の限定の中で世界をみているのです
だから
感覚器官がなければ世界はありえない
風の音を聞いて改めて
世界は変化している、し続けているのだと強く確信したのでした
人間の身体も細分化していけば分子や量子でできていて
常に運動し続けている流動的なものです
変化し続けていて、捉えるものによって変わるこの世界は
実体がない、ともいえます
感じているのは、量子が止まっているかのように見える一瞬の今なのです
インドの聖典、ヴェーダでは、感覚器官に左右されるこの世界は
幻である
と、とらえます
実体がないのは世界と同様人の❛心❜、❛体❜もそう
実体のあるものはただ一つ
アートマ―(創造神)
であって
この
非実在(アサット)と実在(サット)を分別することが
識別知(ヴィヴェーカ)
として実在と結びつくことが信仰である、とされるのです
そして
それこそがヨガ(結びつけるの意)なのです
今朝
布団の中で風の音を聞いて
実体のないってこういうことか
と
なんだかとても単純に納得できたのです
この時
耳で音を捉えながら
変化する音を感じる私がいることも感じました
この場合の私は変化する私を客観視するような私です
これは私のうちのもう一人の私みたいな冷静な私です
冷静な私で観察することをメタ認知といいます
さらに言うと
ヴェーダでは
実体のない、幻に過ぎない心を修正する必要はない!
としているのです
潔いいッと思っちゃいます
道具に過ぎない心を何とかしようとするより
実体のあるものに心を向けよう、
マントラを唱えたり、行為を神様に捧げて
神様を信仰しよう!というのです
このような考えは
ヴェーダ聖典から数千年後に誕生した仏陀の精神性につながったものと思われます
それは
またの機会に
ギックリ腰翌日の昨晩
どうやったら痛みを起こさずに姿勢を変えられるか
色々に動きながら試しました
寝返りの練習みたいなこともしました
胸郭の動きが増してくると腰が楽に動くことに気がつきました
呼吸法も有効だし
背骨の動く順番も観ると痛みが減るんだなあとわかりました
すっかり気持ちよくなりました
そうしたら
昨晩は仰向けでぐっすり眠ることが出来ました
今朝は
股関節の動きも大事だということに気付きました
痛みの感覚は変化しています・・・
散歩もしたいと思えるようになり、夕方、40分ほど歩きました
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここ数日でこの本を読みました
金融コンサルタントの方が書いた本ですが
不確実性に向きあうのは投資家だけじゃない
私たちは誰もが
不確実な中を生きている!
どうやったら
その予測不能な未来に最善に向き合っていけるのか
これは誰にも通じる問題ですよね
それへのヒントになるような記述もありました
わたし的にはここ!
写真撮りました
因果関係に過剰にしばられることはマイナスである
投資の話ですが、、、
そして
量子力学的に観れば
未来を予測するのは不可能である
これも投資の話関連ですが、、、
以前、時間の概念のところでも言いましたが
私たちの体の内部では時は円環していて
現在、過去、未来が同居している
でも
私たちの意識は
時が直線のように流れていくものだと認識するので
現在過去未来があって
原因があって結果があると考えます。
それは
そう考えると安心するからです
頭が混乱しないからです
でも
私たちの体を作り、宇宙を構成する量子レベルでは、
未来は予測不能
数式で表せない、予測できない(意識でとらえようと思うと、です)です
ダイエットのために食事を変化させたとして
変化させたから体重も変化するだろうと期待します
よね?
でもホントは体はそう簡単にコントロールできないだろうとどこかでわかっている
つまり
カオスだとわかるから
ダイエット頑張ったから100%体重が減ると確信できない
体重減っていますように、、と願いながら体重計にそおっと乗ります
自分の身体は予測不能、いわゆるカオスであることをホントは知っているから。
だから
不安になるし
逆に
信頼しようともします
私は
腰痛の原因は白菜漬けたことだと原因化しています
原因がある方が楽だから
そして
腰痛が回復するかどうかは不確実です
カオスを信頼するほかない
様々に自分なりに工夫しながら
あとは委ねるのみです
ただ
身体を放置するのは自分で納得できないから
様々に動きを試してはいる
でもそれが結果としてどんなふうに現れるのかはわからない
カオスは不安材料でしょうか
不確実性は恐怖ですか?
この不安とどのように付き合っていくか
それを見出していくこと
それが成熟することだと
養老孟子さんは言っています
それはまたの機会に。。。