今日は福井へ移動しました!
勝山市に入り、
白山信仰の拠点のひとつ
平泉寺に立ち寄りました
と、そこは
前回訪れた夏の景色とは全くの別世界
参道のところは雪がかいてありました
スニーカーなので恐る恐る進み
ゴールが見えてきた!
そこを過ぎたところは
階段が雪に埋もれていた〜
なんとか鳥居をくぐると
除雪した道に出てホッとする
これ以上は進めない( ; ; )
ここまで引き返しました
明日は
滑ってきます⛷
ヨガベースの動作向上レッスン
今日は福井へ移動しました!
勝山市に入り、
白山信仰の拠点のひとつ
平泉寺に立ち寄りました
と、そこは
前回訪れた夏の景色とは全くの別世界
参道のところは雪がかいてありました
スニーカーなので恐る恐る進み
ゴールが見えてきた!
そこを過ぎたところは
階段が雪に埋もれていた〜
なんとか鳥居をくぐると
除雪した道に出てホッとする
これ以上は進めない( ; ; )
ここまで引き返しました
明日は
滑ってきます⛷
昨日、オンライン体操教室を主催されている
アレクサンダーテクニークの先生と対談しました
これは
体操教室に参加されている方に向けたものですが
ここに紹介します
お時間ある時に聞いてみてください
以前ブログに書いた事を話しています
少々マニアックな感じになっちゃったけど😂
いつものこと、
と、皆さんなら思ってくださる、、、、はず😆
さてさて
今日は快晴でしたね
私は祭日をいいことに
そして
夜のレッスンに間に合うように
行ってきました
木曽福島
またまた単独です
御嶽山!
雄大です〜
新雪ふかふかのゲレンデ
山頂は
こんな感じ
御嶽山と
白山‼️
今日は午後スキースクールに入りました
私の他2名の女子は
なんと
高校生‼️
そのことにも驚きましたが
先生の男性の指導が、とっても身にしみました
なんというか
超初心者モードで教えてくださったのです
いちお
中級コースだったのですがね。
始まりは
準備体操
「かがんでスキーの板の先端に触ってみましょう」
「後屈しましょう」
「上に伸びてみましょう」
「左右に倒れてみましょう」
「どうですか❓結構いけるでしょう、スキー板の上ではこんなに身体動かせるんですよ!ビクビクすることないんですよ」
おおおおおお
なるほど〜ヨガっぽい
その後
ストックなしでボーゲン状態の体重移動をゆっくりゆっくり2往復
ここまでで半分以上経過
小回り教えてほしいのに
と思っていたけど
なんだかほんと単純に楽しく、ただ、面白い
その後も
片足上げて滑ったり
ジャンプしたり
足広げて並行に滑ったり
そうして
重心の大切さを時間をかけて教わりました
とにかく前傾姿勢が大切なのだと。
今までの先生と全然違う角度からのコーチング
基礎の基礎が大切だと
そして
余裕をもって滑ることが大事だよと
それを
身体で覚えていこうね、というメッセージを受けとりました
私はとても楽しいひとときでした
スキーの実力が違う3人全員に学びがあったレッスンだったと思います
ほんと
勉強にもなりました〜
また、見に来たい〜
ポッドキャストで
京都大学名誉教授の乾敏夫先生の話を聞きました
とても興味深かったのでここにシェアします!
感情は脳で作られる!
感情を露にするってなんだか恥ずかしいことのように感じることがありますが
感情を持つことにはには意味があります
それは
⓵自分で、今自分がおかれた状態を知ること
不快なのか快なのかがわからないと身の危険が防げませんよね
②(表情などで)他者のおかれた状態がわかること
感情は自分を確かめ、他者を理解するために必要なものなんですね
では感情はどのように起こるのでしょうか?
脳は推理する
私たちはなぜ胃が痛いとわかるのか?
それは
胃が痛みを引き起こすのではなく
胃から送られてくる信号を基に脳が内部の状態を推測しているから
痛みは
自律神経を通して胃からの信号を受けた脳の推測反応なんですね
私たちはなぜ世界を見る事が出来るのか?
実はこれも
網膜からの感覚神経を基に見えるものを脳が推論しているから。
つまり
身体の内的環境も外的環境も脳は推論しているのですね。
これは
唯識(ただ識るという働きのみがある)に通じるものがあります
感情は主観的なもの
そこで感情の出来上がり方なのですが
2つの働きに要因があるのです
⓵身体の内部の状態を脳が推論する
何かのはたらきにより
心臓がどきどきする、胃が痛くなる、手に汗をかくなどの身体反応が起こると
身体の内部で変化が起こっていることを脳が推察します
ああ、心臓の動きがいつもと違うなあと。
その上で
②なぜそのような身体状態になったのかの原因を脳が推論する
このことで感情が勃発するのだそうです
これはかなり主観的な反応ですよね
ドキドキするのはなぜか?
恐れかもしれないし、緊張感かもしれないし、好き、だからなのかも!?
ドキドキを感じて、その後でその反応に見合う理由を脳が予測して感情となる。
⓵②のすり合わせが行われているのだそうです
感情のスタートは
何らかの変化に反応した体を脳が感知することから始まるんですね
内臓は感情発生の先回りをしている
ここも面白いところです
さて
身体の状態がわかる人は前向きであることが多いようです
調子がいい時もそうでない時も
内臓からのボトムアップをとらえて
なおかつ
脳で行うその感覚に対する推論の解釈、予測を間違わないこと
このギャップ、誤差がないほうがいいようです
内部からの信号を過大信号にとらえたり
はたまた
内臓状態を無視し過ぎないこと
ギャップをモニターしているところが脳にはあって、これがうまくいかないと精神的な疲労に、寝ても治らない疲労になるのだそうです
運動も脳の推測と反射で起こる
ここも面白かったところですが
運動時、例えばとても簡単に
コップをとろうとするとき
コップを持ったときの感覚を脳が予測するのだそうです
手が動く前に
脳はコップを持った時に感じるであろう重量感、手にかかる圧迫感、触感など、筋肉を通じて生じる感覚をを予測しているのです!
そしてその後
脊髄の反射弓がはたらいて勝手に動作をおこす!
反射って無意識に起こる反応なのですが
運動することは達成されたときの感覚を予測することで
コップを持ったり、ペンを持つのも最終的には反射
運動ってあえて正確にいうと
脳の予測運動から始まる反射
ということが分かってきているのだそうです
ってことは
反射には手を出せないので
予測脳が肝心!ということになります
この予測は
動作を変えていくこと、繰り返していくことで変化していくと思うので
動作の経験を増やしていくことで
脳の推測の仕方が変わると思うのです
脳の予測は共感につながる
最後に
他者とのコミュニケーションも脳の推測によって成り立つ、という話。
脳にはミラーシステムという働きがある
それは
笑顔の人を見ると、自分がそれをまねて思わず笑顔になり
その時に生じる自らの身体感覚に何らかの変化が生じる
それを感じるのと同時に
「ああ、おそらくこの人も同じ身体感覚を持つのだろう」
と脳で予測して
今、目の前の人も自分と同じ身体感覚を持っているんだ、と共通点を見出す。
つまり
身体感覚があるから
脳が推測することが出来るから
ミラーシステムという共感がはたらくのですね
脳の働きがわかると
さらに自分を知ることになる
そこに
何だかワクワクするような喜びがあります
今週末、福井は大雪のようで
子どもたちとスキー🎿で集合‼️
が無くなりました。
で
実家に両親の顔を見に来ています
土曜の午後、多治見は小雪が待っていましたが
浜松過ぎたあたりから天気が良くなり
清水は快晴
友人とお茶してから
夕方、家の近くを散歩
夏みかんが鈴なり🍊🍊🍊
ホント
鈴だーーーー
久しぶりの場所
久しぶりの景色に
身体は高揚する
先へ先へとのぼれるだけ登って
足裏を観察していた時、
その時
ああ、これも『サイクルだ〜』という感覚になった
足裏が転がり続けることで繰り返されるリズムがある
転がり続けて、どこへ向かうわけでもなく
ただサイクルとしてそれを楽しむ
移動って
円形のものに任せて行ってる
車、自転車、徒歩での足の裏
船はどうかな🚢
スキーは⛷登って下るのサイクル
登り切ったら
下り坂が眺められて引き返す気になった
登りきったら下りがある
そのことも
サイクルとして感じて、なんだか納得して引き返す☺️
帰り道
清水港はうっすら夜景
そして今朝
朝から快晴
庭の梅の花と
お隣のさくらんぼの花🍒
朝からここで友人と話す
昨日も今日も
最後は色即是空の話になり
そんな話が出来る友人の存在ががありがたい
そして
今日も私のサイクルがスタート‼️
今月はのレッスンでは
足裏のケアをしていきたいと思っています
足の指のマッピングをしたり
関節を動かしたり
足裏のマッサージをして
足裏にスイッチを入れます!
そこから
立った姿勢で足の甲を床に置いて足の骨の広がりを作ったり
足の裏を床に置いてそこへの乗り方を変化させるような動きをしていきます
足裏の感覚を高めることは
足裏の皮膚の状態をより良くしていくことにもなります。
また
足の骨に生じがちなトラブルの予防、改善にもなりますし
立った姿勢や歩行を楽にします!
昨日、今日と足裏を思いながら歩いています
上り坂の時
膝裏を後ろに送り出すようにして指の離陸を観察
階段も登りは後方の足を意識します
あ
ここは可児の広見の公園です
下り坂の時は
前足裏の置きを意識するとスムーズ
階段の時も下りは前足ですね
足裏の使い勝手を考えつつ
階段を上ったり下りたり
坂道を何度も引き返して往復ッ
薄着でも汗かきました
季節がよくなったら
外でのwalkingサロンを計画します!!
小豆麹を作ってみました
スープジャーでも出来るなら!と思って
これを見て
https://www1.nhk.or.jp/asaichi/archive/211206/recipe_3.html
けど
小豆が少なくてなんか違う・・・
見本と
現実
麹が多いッ
甘さはあるけど
う~んこれじゃあ小豆麹というか
「麹あん」か。
パラパラしてる(´;ω;`)
甘さはあるけど、、、
これはリベンジします!
今日は久しぶりの場所を散歩
今日は
ひろさちや の本を読んだので
やはり頭は仏教モード
私は
私を取り巻く多くの
生命との縁起
ものとの縁起
時間との縁起
で成されている
縁起とは作用する力ですね
この縁起による作用の炎が消滅したときに
死を迎えます
炎があるので私があり、そして煩悩もあるのですよね
行った先ではビルが見えました
歩くたびに
仏教的になる私です
ぎっくり腰の痛み
発症から3日後の午後にはだいぶ回復し、
週明けには痛みが無くなりました
本当にお騒がせいたしました
///////////////////////////////////////////////////
今日は木曜日
可児のレッスンの後、鳩吹山に登ってきました
登山口まで続く道
この道が私の視覚に映り込んでくる
そのことで
私は私が存在することを意識できる
道を歩く振動感覚があるから
その感覚を手立てに
私は私の存在を確認できる
私は私を感覚情報によって作りあげている
私は
実は
どこにも存在しないのです(名詞としてはない)
私は
私の存在を識り(しり)続けている
その働きがあるにすぎないのです(動詞としてある)
『私』は意識の働きに支えられて、起こるものなのです
御嶽山が見える
そのことで
私は私を識するのです
目に入るものを通じて自分を作っている
寝ている時は私は私の感覚を感知できない
認識する対象がなければ
主体である識もなくなる
だから
私はなくなり
そして
朝、目覚めたとき受ける感覚が再び私を作りはじめる
世界から受ける感覚によって私はその都度成り立っている
その都度成り立つものだから
実体はないのです
じゃあ
鏡の私は私じゃないのですか?という質問がありました
これは、厳密にいうと
⓵鏡に映った姿が視野に入った
②その顔が私だという意識(言葉)がはたらく
③それは私であると意識する
という順序をとっていますね
鏡に映った顔は
決して自分の目で直接見ることは出来ない、他人から見た私の映像です
これが目に入った時、
「他の誰でもないと断言できる、他者から見えるであろう私」
という言葉と共に私が意識に上がるのです
こういう時もあったかな?
鏡に映った自分を見て
そこで初めて私は私を識するのです
「ああ、これが鏡に映った私だ」
という言葉がそこには介在します。
言葉のない幼いころは
その言葉がないから
私が起こらないのです
動物もほとんどがそうでしょう。
鏡に映る映像
それが見えるとともに
それが間違いなく私である!と結び付ける働きがあって初めて私の顔になるのです
その意識こそが私を私として成立させているのです
鏡を見て
鏡に映っているのは私だ(この時自分の方から鏡の私を見る方向です)
というより
見る事によって私を成立させているのです(鏡に映った私の方からこちらの私に向かう方向)
ちなみに鏡に映る私は、変化し続ける途上の一瞬のものです
他人が居なければ私は存在しないのですか?という質問もありました
身体感覚があれば私はある、と意識出来ます
なので
存在はする
ただ私たちは
人と接するときに
その人は自分ではない人、他者だという区別を言葉でしています
そのことで私を存在させているのです
他者という認識対象があるということは私の存在を強烈にします
そのことで自我も強まります
他者というのは必ずしも人間ではないです
この
他者によって(他者でない)自分を識できるのですよね
そんなことを思いながら山頂へ
私は存在しないんだ
とおもいつつ
車でお弁当
味覚も私を想起するのです~
仏教では
この世界は常に変化していくものと考えます(諸行無常)
今日見た土岐川の流れのように
そしてその実態は
空
色即是空 存在するものは空(ゼロ)から因果の力によって発現している
空即是色 世界はは空であるがゆえに実体があるように存在することが出来る
ととらえます
空という原因が世界という結果になっていて
世界があるという結果は空が原因である
として
今の世界を因果の双方からとらえて実体のない空だとしているのです
インドで起こったゼロの概念、空
これは
理解しがたい概念かもしれません
仏教の唯識論では
(自分は空なのだから)自分が存在し、実体があると思うことは無名であり、苦の原因である
無明による実体への執着をなくせば縁起の理が見えてくる
としています
縁起の理というのは
すべてのものは
関係性の中でその存在が確定するということ
私の存在の確定は、私以外の誰かによる私との関係性の結果として成り立つ相対的なものである
私以外の誰かが私を捉えるから結果私が存在する
私以外の多くの力によって私が成り立っているということ、です
普通の考えでは理解が困難ですが
無明の強さですー
すべて世界は同様に、世界をみるものによって作られている
これが縁起の理
池は
池と認識されることによって池になる
つまり
世界は見るものによってその都度形作られている
から
自分にも世界にも実体がない
誰かに光を照射されて初めて映し出される陽炎のようなもの、ということなのです
今日は永保寺周辺を散歩しました
唯心でいうと
お寺の像が目に入ってくる
そのときはじめて自分の世界にそれが現れる
石を踏む音が耳に入ってくる
世界にその音があることを確認できる
感じたことが世界になる
私たちは世界を言葉にして、認識する
言葉があるから存在を生み出せる
言葉にないものは存在させられない
沸き起こる感情は自分一人の意思によって起こるものではなく
他との関係性の中で生じるもの
怒りや悲しみは、そういう言葉があるからそのように感じる
そうやって
他者との関係性の中で意識ははたらく
これも
縁起の理なんだ。
唯心論だと
自分は自分以外の多くの存在による関係の中で自分であって
自分で自分の存在を確定することはできない
自分てなんだろう?
これは私が小学生時分から今も時々起こる疑問なのですが
縁起の理においては
自分は無いのです(無我)
自分は他者との関係の中で在るものだからです
無明さゆえに
私が怒る
私が悲しい
私の時間
私の体
などなどの執着が生じますが
そもそも自分てほんとに実在するのか?
いるかいないかわからないなら、この怒りはどうやって起こるんだろう
なーんてことを真剣に考えてみると
もしかしたら
変化があるかもしれません
もしかしたら、、、です
今朝、布団の中で目を覚ますと
風の音がするのが聞こえてきました
風が木を揺らし、葉を震わせる音
風が窓に当たり振動させる音
不規則なその音をしばらく聞いていて
思ったのです
「ああ、私は今、(音の)変化を感じることが出来ているんだ」
と。
では
音は存在するものなのか?
否
私達の持つ耳の機能によってそれは音として成り立つのです
音の感知力は動物と人間では違うし、人によっても違います
私達一人一人がその機能によって、音を成立させ、聞いている
耳が音を生み出しているのです、この世界から。
視覚、嗅覚しかり、味覚、触覚も
この感覚器官をもって世界を作り上げている
感覚器官の限定の中で世界をみているのです
だから
感覚器官がなければ世界はありえない
風の音を聞いて改めて
世界は変化している、し続けているのだと強く確信したのでした
人間の身体も細分化していけば分子や量子でできていて
常に運動し続けている流動的なものです
変化し続けていて、捉えるものによって変わるこの世界は
実体がない、ともいえます
感じているのは、量子が止まっているかのように見える一瞬の今なのです
インドの聖典、ヴェーダでは、感覚器官に左右されるこの世界は
幻である
と、とらえます
実体がないのは世界と同様人の❛心❜、❛体❜もそう
実体のあるものはただ一つ
アートマ―(創造神)
であって
この
非実在(アサット)と実在(サット)を分別することが
識別知(ヴィヴェーカ)
として実在と結びつくことが信仰である、とされるのです
そして
それこそがヨガ(結びつけるの意)なのです
今朝
布団の中で風の音を聞いて
実体のないってこういうことか
と
なんだかとても単純に納得できたのです
この時
耳で音を捉えながら
変化する音を感じる私がいることも感じました
この場合の私は変化する私を客観視するような私です
これは私のうちのもう一人の私みたいな冷静な私です
冷静な私で観察することをメタ認知といいます
さらに言うと
ヴェーダでは
実体のない、幻に過ぎない心を修正する必要はない!
としているのです
潔いいッと思っちゃいます
道具に過ぎない心を何とかしようとするより
実体のあるものに心を向けよう、
マントラを唱えたり、行為を神様に捧げて
神様を信仰しよう!というのです
このような考えは
ヴェーダ聖典から数千年後に誕生した仏陀の精神性につながったものと思われます
それは
またの機会に